緒言:データベースの収載内容について

化学兵器は、古くは紀元前四世紀ペロポネソス戦争で使われたが、総力戦といわれた第一次世界大戦になって初めて大規模に使用された。当然ではあるが、あまりにも非人道的であるということから、大戦後の1925年にいわゆるジュネーブ議定書が各国の署名を集め、使用禁止を誓った。しかし、タブン、サリン、ソマンがドイツで誕生したのは、第二次世界大戦の戦前から戦中にかけてであり、原料の入手が容易で比較的簡単にかつ安価で製造できることから、化学兵器は貧者の核兵器といわれるようになった。

松本と東京のサリンテロ事件で、戦場のみならず不特定多数に対するテロリズムでも化学兵器が使用され得ることが実証された。一方、いわゆる毒劇物は化学工業と密接にかかわっており、法的規制や管理を強化しても、社会から完全に隔離・排除できるものではない。和歌山県で発生したヒ素混入事件、保険金詐欺事件に薬毒物が使用されるなど、毒劇物事件が相次いだ。核災害はともかく、このような化学災害は生物兵器と並んで最も現実的な対応策が必要な特殊災害である。

東京地下鉄サリン事件はわが国で唯一の化学機動中隊という化学災害専門部隊をもち、医師の常駐する中央管制システムにより情報が一元的に管理されている東京消防庁の管轄下で発生した。東京都は当時すでに救急救命士制度も行き渡っており、1000人を越える救急隊員とのべ100台を越える救急車が15の被害駅に動員された。その奮闘ぶりは犠牲的、献身的で、決死の活動であった。しかし、後々指摘されているように決してスムーズに対応できたわけではなく、極めて危険な行為でもあった。われわれ臨床医も単に化学兵器に関する知識がないというだけではない。当日のみで600名以上の被災者が殺到した聖路加国際病院では、休憩はおろか、食事もとらずに対応されているが、このような事態への思考回路が当初なかなか組み立てられなかったものと想像する。

化学兵器によるテロや毒劇物を用いた事件は予測できない状況下で発生する。救助等の事件現場での対応や事後処理は守備範囲外であるとしても、鑑別診断と治療は医師の責務である。そこで、このデータベースには、除染や個人防護装備の基本を解説するともに、主として化学兵器について類型別に鑑別診断や治療の指針を編集した。個々の物質についても、データベースの基本となっている20種類の化学兵器に関する詳細なデータと各種解毒剤の詳細ファイルを収載した。いずれも収集した資料を中毒情報センターで加工・作成したものであるが、以下にはその内容を列記する。なお、一部の資料を検閲・執筆して頂いた川崎医科大学救急医学奥村徹氏に感謝する。

1.化学兵器危機管理データベース

(1)医療機関における除染と個人防護装備

(2)鑑別診断/応急処置/トリアージ

①化学兵器早期鑑別チェックリスト

化学兵器が疑われる災害発生時に、被災者の初期症状から使用された化学剤の種類を推定するためのチェックリストである。

②サバイバルカード(鑑別診断と現場応急処置)

化学剤の類型別に、症状、発症時間、特異的応急処置、除染法等を表にしたものである。

③トリアージカード

化学剤の類型別にトリアージ基準をまとめて表にしたものである。

④各種化学兵器対応マニュアル

中毒事故発生時における病院、(中毒派遣医)、日本中毒情報センターの対応内容

を時間軸(横軸)に従って表にまとめたものである。

サリン、シアン、ホスゲン、マスタード以外に、ヒ素、農薬(有機リン、カーバメート系、パラコート、グルホシネート)についても作成した。

(3)検知紙、簡易検査、試料の採取と保存

①M8検知紙M9検知紙使用法

G剤(サリン、タブン、ソマン)、V剤(VX)、びらん剤を鑑別できるM8検知紙、神経剤、びらん剤に反応するM9検知紙の使用法について記述した。

②東洋紡製検知紙使用法

G剤(サリン、タブン、ソマン)、V剤(VX)、びらん剤の鑑別が可能な東洋紡製検知紙の使用法について記述した。

③簡易分析法

血中シアン、尿中パラコート、各種薬物(トライエージ)

④試料の採取と保存

試料の種類、採取量、保存法等について

⑤分析依頼書と報告書

(4)類型別治療法

化学兵器の類型別治療法をまとめたものである。

神経剤、血液剤、窒息剤、びらん剤、催涙剤について作成した。

2.化学兵器データベース(概要版/詳細ファイル)

詳細ファイルは成書、文献等に基づき作成した化学兵器の毒性、体内動態、中毒症状、治療等に関する詳細なファイルである。概要版は緊急時に参照するために簡便にまとめたものである。下記の20品目について作成した。

(1)神経剤

①サリン、②ソマン、③タブン、④VX

(2)血液剤

①シアン化水素、②塩化シアン

(3)窒息剤

①ホスゲン、②ジホスゲン、③塩素、④クロロピクリン

(4)びらん剤

①マスタードガス、②ナイトロジェンマスタード、③ルイサイト、④ホスゲンオキシム

(5)催涙剤

①CN、②CS、③CR、④CA、⑤OC

(6)催吐剤

①アダムサイト

3.解毒剤データベース(概要版/詳細ファイル)

解毒剤詳細ファイルは中毒起因物質に対応する解毒剤・拮抗剤について、適応、薬効・薬理作用、使用法、使用上の注意、毒性、体内動態等から入手法にいたるまでを網羅した詳細な資料である。概要版は緊急時でも的確に使用できるようにこれらを簡便にまとめたものである。下記の13品目について作成した。

(1)輸入解毒剤

① Cyanokit,②Cyanide Antidote Package,③Antidotum Thalli-Heyl,

④ Methylenblau VITIS i.v.,⑤Antizol

(2)国内製造解毒剤

①硫酸アトロピン、②プラリドキシムヨウ化メチル、③亜硝酸塩、

②チオ硫酸ナトリウム、⑤ジメルカプロール、⑥d-ペニシラミン、

⑦エデト酸カルシウム二ナトリウム、⑧N-アセチルシステイン

もし、わが国であのサリン事件が再び起こった時、関連組織の有機的な連携のもとに、淡々と対応できるように願う。われわれ臨床医は分析結果を待つまでもなく、中毒症状による鑑別診断から、間違いなく原因物質にたどりつきたい。今回企画したセミナーやこのデータベースがその一助となれば望外の喜びである。

2001年3月

日本中毒情報センター常務理事

大阪府立病院救急診療科

吉岡敏治